読書の備忘録です。
読んだ感想、考えたこと、印象的な箇所の引用などを記録しています。
「なぜ被災者が津波常習地へと帰るのか」
3回目
舞根地区は唐桑半島の舞根湾に面し,カツオ漁やカキ養殖をおもな生業としながら畑作や稲作も行う,半農半漁の集落のようです.三陸地方では,マグニチュード8以上の地震による津波は869年貞観津波のあと5度あり東日本大震災に至りました.また,唐桑ではこれまで海難事故が多く,津波のほか漁船の遭難などによって多くの犠牲がでてきた歴史があるようです.
海難事故による犠牲がでたときなどには,寺と神社において穢れを祓うための儀礼が行われるようです.これら2つの儀礼によって穢れが祓われ,海はふたたび漁場へと戻されます.植田はこう書いています.
《死者をウラやハマ単位でともに悼み,死者のみならず遺族もまた慰めてきたのである.これは,いつ死者をもたらすかもしれない海が,同時に生業の場でもあるような社会において培われてきた海難死を受け入れる技法といえるだろう》
東日本大震災ではこれら2つの儀礼に加えて,舞根地区では晦日盆(2011年8月31日)に海辺に集って先祖の供養をしたようです.これについて植田はこう書いています.
《ここで舞根の人びとが行っていることは,津波という“未曾有”と表現される災害がもたらした死者にもまた,海難史のなかでは“通常”の技法で向きあうことで,あまりにも非常な死を回帰的な時間(=盆)のなかに置き直す作業である.こうして唐桑の東日本大震災での津波の犠牲者は,今後も集落の“先祖”として晦日盆には繰り返し呼び出され,そして見送られる存在となったのである》
植田は,舞根や唐桑の人びとが海難史のなかで培ってきた技法がそなえている「抵抗力/回復力」として2つ挙げます.1つは《忌まわしい経験によって穢れてしまった海を漁場という生業の場に戻す》こと,もう1つは《死者をウラ単位でともに御施餓鬼やウラバライ,そして晦日盆のたびに繰り返し供養するような存在へと変えることで,“未曾有の災害”と表現されるような直線的な時間ではなく,繰り返し訪れる回帰的な時間のなかに死者も遺族も津波もまた位置づけなおす》ことです.
東日本大震災による途方もない被害や犠牲を前にしたとき,人は絶望し立ちすくんでしまうこともあるかもしれません.唐桑や舞根の人びとはこれまで綿々と行ってきた弔いや供養の儀礼をこの震災においても行ったようです.それら儀礼の過程をひとつひとつ経るなかで,集落の人びとと悲しみを分かち合い,現実を少しずつ受け入れられるようになるのかもしれません.そしてそれは,生活をたてなおす力にもなっていくのでしょう.
唐桑では,海で遭難などがあった場合,他の船はただちに漁をとりやめ捜索や救助を行うようです.このとき,捜索活動が終了するまで漁はできないので,漁獲高は減ってしまうし,捜索活動にかかわる船の燃料費などコストもかかるでしょう.それらを負担してまで,みなで捜索を行うようです.また,東日本大震災のときには,きわめて危険ではあったのですが,船を沖出しするよう声を掛け合ったようです.沖出しについて植田はこう書いています.
《一定の動力をそなえた船であれば,十分な水深のあるオキでは津波は舳先を波にほぼ垂直にあてれば乗り越えることができる.(中略)すなわち同じ海でも船を“地先の海”から“オキ”へと移動させることであり,当然のことながら津波がやってきたときには危険極まりない場所と化す“地先の海”よりも,船にとっては“オキ”の方が安全な場所であることを彼らが知っているからである.》
植田は,民俗学者高桑守史による漁民の領域意識を参照しながら,舞根・唐桑の人びとと土地との関係について述べています.高桑のいう漁民の領域意識とは,オカをムラ・ハマ,ウミをイソ・オキ・オクウミ(ヤマナシ)という領域に分け認識していることです.このうち,ハマとイソは「地先の海」,オキは「沖合」ともとらえられるようです.植田は舞根の人びとにおいては,イソ(地先の海)とオキ(沖合)に対する認識が平時と津波襲来時では逆転することに着目しています.
舞根湾はイソ(地先の海)としてとらえられており,平時は穏やかな湾でありカキ養殖が行われています.その一方,オキ(沖合)は荒海であり海難事故のリスクがあります.ところが,津波襲来時にはカキ養殖筏や集落の家々は流されてしまい,イソやハマ(地先の海)は大きな被害を受けてしまいます.一方で,津波が地先の海にくる前に,沖出しによって津波を乗り越えることができれば船をまもることができるので,このときオキは安全な場所ということになります.このように,イソ(地先の海)とオキ(沖合)は平時と津波襲来時でその性格がかわり,互いに補完するような関係にあると植田は指摘します.
植田は舞根の人びとの役割分担についても言及しています.子や祖父母はカキ養殖やイソ漁といった地先の海での仕事,父は沿岸漁業や遠洋漁業といったオキでの仕事,母は農作業や勤めにでるといったオカの仕事をおもに担います.このように仕事を領域ごとに分担することで,オキ漁やイソ漁での不漁,時化や津波などのリスクを分散しているとも言えるようです.そして植田はこう言います.
《津波を被災してもなお,彼らが近づこうとする海とはこのような海なのであり,舞根,ひいては唐桑の人びとが培ってきた海で生きて行くための技法が有効に発揮されるのもまた,彼らがこれまでつきあってきた代替不可能な海なのである》
「代替不可能な海」というのは決定的な言葉だと思います.また一ノ瀬(※3)が報告している,舞根地区の住民の記憶を聞きとる調査の報告では,舞根の地図とともに《3月にはアサリ取り 子供の遊び場》《桜の木が3本 花見や芋煮会》《乾燥場 飲み会で集まる》などの証言が紹介されています.舞根の土地や海は生業の場所であると同時に,子供の遊び場であり,仲間と楽しんだ思い出もある人生の記憶が堆積した場所であるのでしょう.舞根の人びとにとって舞根の土地と海はかけがえのないもの,「人生そのもの」なのであり,その海との関係を断つことはこの震災を経験したとしても考えられなかったのだと思います.
ここで植田は舞根の人びとが防潮堤建設に反対したことについて再度言及します.舞根の人びとが建設に反対したのは,《防潮堤にひそむ,海がもたらす豊穣だけを享受しようとする態度を見抜いているからではないだろうか》としています.そして,舞根の人びとと海との関係について,こう述べます.
《舞根の人びとが知り尽くしているのは,海がもたらしてきた大小の災禍を受容することなしに,海がもたらしてくれる豊穣にあずかることはできないということではないだろうか》
また植田は,論文の終盤に,災害危険区域への指定などを通して津波被災地への居住制限をかける動きについて再度言及します.
《このような直近の災害の被害の大小を基準に「危ないからもうそこに住んではいけない」あるいは「帰ってはいけない」という“善行的要素”にもとづく大小の政策にそなわる干渉行為を“災害パターナリズム”と呼んでおけば,舞根の人びとはこれに対抗する態度を一貫してとっているようにみえてくる》
《この災害を機に防災あるいは減災を思考するならば,結果としての“被害の大小”からだけではなく,それぞれの場所で人びとがそなえているかもしれない“回復力・抵抗力の大小”からもまた多くのことを読み取らなければならないはずである》
東日本大震災という甚大な災害を前に,「危ないからもうそこに住んではいけない」と考えるのは政府や自治体だけではないように思いますし,そう考えてしまうのも無理のないことです.とくに政府や自治体には人命や財産をまもる責務があり,それを果たそうと必死になるのも分かります.しかしそれがかえって視野を狭くし《被害の大小》のみしか目に入らないようになると,選択をあやまりかねません.《災害パターナリズム》とは厳しい言葉です.たとえ何度も災害に見舞われようとも,そこで生活しようとする人びとがいる.厳しい土地に暮らしている人びとは失うものがあっても,そこから回復する力を長い歴史のなかで培ってきている.それに目を向け,対話を重ねていくことが大切なのだと思います.
参考
※3 一ノ瀬友博:防災集団移転促進事業と気仙沼市舞根地区におけるオーラルヒストリーの収集,農村計画学会誌,Vol. 34,No. 4,pp. 415-418,2016.
(2021/07/22)
「なぜ被災者が津波常習地へと帰るのか」
2回目
植田は先行する調査・研究として山口弥一郎についてふれています.長期間にわたって津波被害をうけた三陸沿岸の集落を歩きつづけ,人びとの声をきいたのが山口弥一郎です.山口は津波による被災集落のその後について3つの移転パターンがあるとしており,植田が紹介しています.
《1つめは村落が集団で「出来得る限り村の機構,旧習などを破壊しないように適地を選んで」移動する:集団移動,2つめは結果的にまとまって移動することのできなかった:分散移動,そして3つめに時を経て,あるいは被災直後からふたたび災禍のあった場所に居住する:原地復興である》
山口は津波被害を受けた村落に人びとが戻ってきてしまうことについてこう言っています.
《何故に折角移った村が原地に復帰するか,その経済的関係が主因であることは知られるが,果たしてそれのみであろうか.元屋敷とか,氏神とか,海に対するなどの民俗学的問題でも含んでいるとすれば,これは到底津波直後の官庁の報告書にのみゆだねておくわけにはいかない》(山口弥一郎,『津波と村』,石井正己・川島秀一編,三弥井書店,pp. 15-16,2011.)
いつやってくるとも分からない津波をおそれ,日々の生活に困って海から離れることはできない,津波被災地に人びとが戻ってくるのは生活のためなのだ,ということは山口もよく分かっていたのでしょう.しかしそれだけではなく,山口は《民俗学的問題》にも目を向けようとします.山口は集落移転の調査や研究にも携わっています.
《昭和八年の津波後,村を高地に移す基礎研究に従事,実際に移す仕事にも関係してみたが,移るのは私どもではなくて,海岸に生活している人々である.この生活を解くことは,経済的な問題だけでなく,人生そのものにもなってくる.移すことも至難であるが,せっかく移った人々も,年月を経ると戻ってくる.(中略)私はひとつの結論として,先走ってしまうが,せめて人命を救うことと,物は津波災害保険でも設定して保証する以外にないとさえ思いつめてみる.それでも,できることなら高地移動をしてもらいたい》(山口弥一郎,『津波と村』,石井正己・川島秀一 編,三弥井書店,pp. 241,2011.)
集落移転の調査・研究おこなうなかで山口は,沿岸の人びとの経済的問題だけではなく《人生そのもの》を見つめ,それを織り込んだうえで移転計画を練る必要性を感じたのではないでしょうか.そうでなければ,高台移転をしたとしても被災した沿岸に戻る人もでてくる.しかし実際には,そういった計画を立案し実行することは至難のわざだったのでしょう.
《せめて人命を救うこと》を求め,《それでも,できることなら高地移動をしてもらいたい》という言葉には山口の悲痛な思いが込められていると思います.
植田は山口の言葉について《「原地復興」を否定するという立場》,《危険な海辺への「原地復興」を非合理とみなす立場》という評価を与えています.私は植田が引用した山口の言葉を読んで,すこしちがった印象を持ちました.
山口は三陸沿岸を歩くなかで,津波により浸水した場所に戻り居住した人々が,ふたたび津波により被害を受け人命が失われたことを何度も見聞きしたようです.一方で,高台移転を果たした集落は津波被害を抑えられたことも確認しています.山口の立場は,沿岸の人びとの《人生そのもの》に目を向けながら,難しいことは痛いほど分かるが《できることなら高地移動》して《せめて人命を救うこと》を考えてほしい,というものです.すなわち,高台移転と沿岸の人びとの《人生そのもの》を大切にする立場を両立しようとするものではないでしょうか.山口はこうも言っています.
《何も漁を手離して移った方がいいと説いているのではない.村の立地条件は決して一,二に止まるものではない.祖先から住みついた位置,生活を共にしてきた経済的,社会的条件を十分考慮して,安全な高い適地に集団的に移ったらというのである》(山口弥一郎,『津波と村』,石井正己・川島秀一 編,三弥井書店,pp. 224,2011.)
実際に舞根の人びとは,おそらく《人生そのもの》にかかわってくるであろう「舞根の土地」「海が見える場所」という条件をかかげ,高台移転を実現させました.山口の考えていたことを実行したのだと私は思いました.
《人命を救うこと》のために《「原地復興」を非合理と見なす立場》をとることは,かならずしも非合理であるとは思いません.ただしそのような立場をとる場合には,植田の言う《海のそばへ帰ろうとする人びとの合理性》に深く目を向けなければならないのでしょう.
(2021/07/21)
「なぜ被災者が津波常習地へと帰るのか」
1回目
2011年3月11日の東日本大震災では,巨大な津波によって沿岸の地域は甚大な被害を受けました.震災のあと,沿岸で暮らしていた人びとのなかにはふたたび元の場所に戻り生活をしたいという人も少なからずいることを知りました.つらい経験をした場所に戻るというのはどうしてなのか,当時とまどいを覚えたことを記憶しています.最近になって,このことに関連しそうな論文を見つけたので読んでみました.
植田今日子:なぜ被災者が津波常習地へと帰るのか―気仙沼市唐桑町の海難史のなかの津波―,環境社会学研究,18巻,pp. 60-81,2012.
この論文では気仙沼市唐桑町の舞根地区の事例を取り上げています.津波によってこの地区では52世帯のうち44世帯が家屋を失いました.それにもかかわらず,被災後1か月あまりで防災集団移転のための住民組織をつくり,集団移転の計画を立案し行政にかけあい,2011年度末には予算をとりつけることができたようです.そして高台へ集団移転を行い,震災から4年半ほどで生活再建できたようです(※1).被災後にこのスピードで住民の意見をまとめ,集団移転の計画を具体的にたてるというのは驚異的だと思います.
集団移転の場所として条件に挙げられたのは,「舞根の土地」であること,そして「海が見える場所」であることだったようです.
この論文では,舞根の人びとがどうして被災した場所に戻ろうとするのか,それは舞根の人びとにとってそれが“合理的”だからだと主張されています.どういうことなのでしょうか.
集団移転先の選定にあたり,舞根の人びとがあげた「舞根の土地」,「海が見える場所」という条件から舞根の人びととその土地や海との深い関係がうかがえます.津波を受けた沿岸には防潮堤の建設が計画されました.舞根の海にも高さ9.9mの防潮堤が計画されましたが,舞根地区は防潮堤建設に反対したようです.防潮堤が建設されると土地や集落が海と分断されてしまいます.それは舞根の人びとにとって堪えられないことだったのでしょう.
とはいえ,このような舞根の人びとの行動を理解しがたいという人もいるでしょうし,《“非合理”な振る舞い》と捉えられてもおかしくないかもしれません.そこでこの論文では,舞根の人びとと海との関係を過去にさかのぼって見ることで,《彼らが今回の津波の被害をどのように経験し,これから災禍をもたらした海とどのような態度で向きあおうとしているのか》検討しようとします.
そして,《(1)環境社会学が繰り返される津波被害をいかに捉えうるのかを試み,なおかつ今回の災害のような被災範囲の広大で激甚な被害を目の当たりにして(2)政府や地方自治体などの公的主体が「危険だから」ということを強力な根拠として被災地へ「帰る」ことに容易に介入することに対し,どのような対抗論理を示せるのかを試みたい》としています.
ここで,政府や地方自治体による《介入》というのは,《津波の浸水域を基準に「災害危険区域」として無期限の住宅の建築制限を設けたり,津波の波高に比例する高さの防潮堤を漁村に築こうとする計画》などのことを指しているようです.舞根地区に限らず,「災害危険区域」の指定による建築制限,そして防潮堤建設は津波被災地の復興に大きな影響を及ぼすことになります.
東日本大震災のあと,津波の浸水に対する「災害危険区域」が指定され,住宅や病院など宿泊をともなう居住用の建築物の建築制限がかけられた区域があります(※2).「災害危険区域」と居住との関係は建築の実務のうえでも悩ましい問題です.政府や自治体には被害の想定をおこなってリスクを示し,場合によっては建築制限をかけるなどの対策をとる責務があると思います.その一方で,住民とくに災害のリスクが高い地域に居住する人びとの暮らしも大切にされるべきです.そういったことを考えるとき,この植田の論文のような,災害常習地に暮らす人びとの歴史や生活の仕方に着目した文献から学ぶことは多いと思います.
参考
※1 「防潮堤をつくらなかった舞根地区」,日経アーキテクチュア,2021年3月11日号,No. 1187,pp. 59,2021.
※2 「災害危険区域」は建築基準法第39条に基づき地方公共団体が条例によって指定する区域です.条文を見ても分かるように,災害危険区域は津波だけではなく高潮や河川の氾濫などによる浸水も対象にして指定されることもあります.舞根地区のある気仙沼市は条例を制定し,区域の指定と建築制限を行っています.気仙沼市では,住宅やホテルをはじめ入院可能な病院など宿泊をともなう施設の建築が制限されているようです.津波に対する災害危険区域は,レベル1津波に抵抗しうる防潮堤などがあったとしても,レベル2津波によって浸水すると想定される区域を主な対象として指定されるようです.「レベル1津波」は発生頻度が数十年~百数十年に一度クラスの津波とされています.「レベル2津波」は,東北地方太平洋沖地震による津波のように発生頻度はごく小さいものの甚大な被害を引き起こすおそれのある,当該地で想定しうる「最大クラスの津波」のことです.
建築基準法
第三十九条 地方公共団体は,条例で,津波,高潮,出水等による危険の著しい区域を災害危険区域として指定することができる.
2 災害危険区域内における住居の用に供する建築物の建築の禁止その他建築物の建築に関する制限で災害防止上必要なものは,前項の条例で定める.
気仙沼市における災害危険区域の指定区域と建築制限について
https://www.kesennuma.miyagi.jp/sec/s103/010/020/010/010/1341796894952.html
東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会報告,中央防災会議,2011年9月28日
http://www.bousai.go.jp/kaigirep/chousakai/tohokukyokun/pdf/houkoku.pdf
(2021/07/20)
「建築の四層構造」3回目
今回は第3部第1章の最後「層の理論」(pp.167-172)を読んでみます。ここでは、レヴィ=ストロース、マイケル・ポラニーなどを参照して建築の四層構造と建築デザインとの関係について考察がされています。本書でたびたび言及されてきたように、四層の各層はそれぞれ独立して扱うことができる、というのが難波の主張ですが、ここでは各層をいかに関係づけ建築のデザインへ統合するのか、ということが議論されます。
難波はふたたび柄谷-カントの美学論を引き合いに出しつつ、《第四層の記号性が他の三層を統合する》(pp.167)と言います。「サステイナブル・デザインの理論」(pp.146-155)では、第四層の記号性には他の三層とは異なる、なにか特別な地位が与えられているように感じましたが、それに対応する記述ではないかと思います。しかし難波は、この説明では自明すぎて何も言っていないとして退けます。そして、それに替わる(もしくは補強する)モデルを検討します。
まず、生物学的・進化論的モデルを取り上げます。しかし、《このモデルは四つの要素の層的な構造を明らかにするが、相互関係は自然発生的であり、そこに人間の意志が関与する余地はない》(pp.168)としています。生物学的・進化論的モデルを建築のデザインに適用したとしたら、それは自然のプロセスにまかせるだけで、人間の意志(建築家や建築主の意志など)が関わることがなくなってしまう、ということでしょうか。
ただ、ここで注目したいのは、このモデルの妥当性というより、デザインに対する難波の考え方です。《そこに人間の意志が関与する余地はない》としていますが、言い換えれば、デザインとは「人間の意志」が関与するものである、ということです。難波にとってデザインとは、要素同士が自然に-人間の関与なしに-関係付けられるのではなく、人間の意志が積極的に関与して初めて成立する、そのようなもののようです。
さらに、《進化論モデルは事後的な説明としては有効だが、デザイン行為のように四つの層を事前的に関係づける行為のモデルとしては不完全と言わざるをえない》(pp.168)とします。ここでは、《事前的に関係づける行為》がデザインである、難波はそうとらえていることが明らかにされています。
生物学的・進化論的モデルに対する評価はさておき、ここでいったん、難波のデザインに対する考え方をまとめてみると次のようになるでしょうか。デザインとは四層構造にしたがって各層の要素を整理したうえで、「事前的」に「人間の意志」に基づいてそれらを関係づける行為である。この考え方は本書の議論にとって、重要なポイントになるのではないかと思います。
次に、いわゆる「下部構造-上部構造モデル」について検討しています。《下部構造が上部構造を決定するというマルクス主義的モデル》(pp.168)と《上部構造は下部構造から独立していると主張するマックス・ウェーバー的モデル》(pp.168)があるとし、各層が自律している四層構造は後者に近いとします。そして、《下部構造と上部構造を自然と文化の関係としてとらえるなら、両者を同型の構造によって結びつけるという構造主義的な「記号発生モデル」を考えることができるかもしれない》(pp.168)として、クロード・レヴィ=ストロースの発言を引用し検討します※1。
※1 ジョルジュ・シャルボニエ「レヴィ=ストロースとの対話」、多田智満子訳、みすず書房、1970.
難波はレヴィ=ストロースの発言を引用したのち、《物体としての建築材料を、記号、すなわち建築形態や空間の域まで高めるという行為はデザインそのものである。このモデル(記号発生モデル)によれば、建築のデザインとは、四つの層に同型の構造をつくり出すことにほかならない》(pp.169)と述べます。難波が引用したレヴィ=ストロースの発言は芸術と言語の関係について述べたものですが、重要な発言だと思われるので、のちほどまた考えることにします。
以上の検討の結果として難波は、《進化論、経済学、文化人類学から引き出すことができる結論は、どうやら四つの要素は層を形成しているということだけのようである》(pp.169-170)としています。そして、《四層構造は分析の方法、あるいはデザインの与条件を整理する方法としてはきわめて有効である。しかし四層構造には統合の論理が欠けている》(pp.170)と、四層構造の限界ともとれるようなことを自ら述べます。
四層構造は、すでにある建築あるいは建築史を「事後的」に分析したり、デザインに先立つ条件を洗い出して整理するには使い勝手がいいものであることは、たしかにその通りだと思います。しかし、先ほど確認したように、各層を「事前的」に「人間の意志」に基づいて関係づけるのがデザインであるとすれば、四層構造だけでは、明らかにした条件を建築にまとめあげるには不十分ではないか、ということのようです。
このあと、難波はこのようにも述べています、《そもそも統合の論理など原理的に存在しないと言うべきである。もし統合の論理が存在するなら、デザインを前もって予測できることになり、新しいデザインは生み出されないことになるからである。デザインとは連続的な展開ではなく不連続な跳躍だと言わざるをえない》(pp.170)。ここでも難波にとってデザインとはどういうものか、うかがうことができます。デザインとはあらかじめ予測できるものではなく、ある瞬間にフッとあらわれるものである。この記述から浮かぶのは、そのようなイメージでしょうか。
そして難波は、マイケル・ポラニーの「暗黙知」※2に言及します。
※2 マイケル・ポラニー「暗黙知の次元-言語から非言語へ」、佐藤敬三訳、紀伊國屋書店、1980.
難波は《言語化されない統合的知識である「暗黙知」》(pp.170)と紹介したうえで、《ポラニーによれば、暗黙知とは分析的で断片的な要素をまとめ上げ、創発的な全体へと統合する非言語的な能力である》(pp.170)とし、言語では言い表すことができない「暗黙知」によって、バラバラな要素が統合されるとしています。加えて、《デザインとは、まさに暗黙知の働きのひとつだといってよい》(pp.171)としています。さらに、《暗黙知によって生み出されるデザインを、社会に根づかせるには、統合される要素を可能なかぎり共有できるものにする必要がある。四層構造はそのために明示知化され、共有された知識だと考えるべきだろう》(pp.172)としています。
要素を統合する行為、すなわちデザインは暗黙知によってなされる。四層構造はそのための条件を整理し明らかにするためのツールである、ということでしょうか。また、暗黙知によるデザイン行為は、「事前的」に「人間の意志」に基づいて行われるデザイン行為の言い換えであるようにも思えます。
しかし、それだけにおさまらないようです。《四層構造は明示知化されているとはいえ、閉じた構造ではない。(中略)。四層構造の開放性をもたらすのは、第四層の記号性である》(pp.172)と、ここでふたたび第四層の記号性に言及します。さらにつづけて、《記号性は、あらゆる対象に潜んでいる。四層構造の他の層、物理性、エネルギー性、機能性でさえも、記号性のなかに取り込むことができる。四層構造は、記号性のなかに折りたたまれていると言ってもよい》(pp.172)としています。
《四層構造は、記号性のなかに折りたたまれている》。これがどうやら結論のようです。
これは、本章の前半で感じた第四層の記号性の特別な扱い方とも整合するのではないかと思います。ただ、第四層の記号性、その重要性を感じとることはできるのですが、このまとめ方はやや唐突な印象も受けます。
《四層構造は、記号性のなかに折りたたまれている》とは何を意味するのでしょうか。
ここまで読んできて明らかなのは、難波がデザインの統合について検討するとき、言語的な働きではなく、非言語的な働きに着目していることです。難波の言うように、建築をデザインする行為そのものは、非言語的な「暗黙知」による働きなのかもしれません。しかし、そのデザインされたものが「建築」となるには、私達にとって「建築」と呼び得るものがたしかにそこにある、と感じられる必要があります。
私は、建築をデザインする、要素を統合して建築にするというのは、ものとして一つの建物にまとめるあげることに加えて、私達がそのものを「建築」だと思える、「建築」がたしかにそこにある、それを実感できることが必要ではないかと思います。では、そこにあるものを「建築」だと思えるということは、どういうことなのでしょうか。
それを考えるには、やはりどうしても「言語」の働きに注目するべきではないか。
「言語」の働きに着目することで、《四層構造は、記号性のなかに折りたたまれている》ことの意味もさらに明確になるのではないか。
難波が引用したレヴィ=ストロースの発言※1を見てみると、《記号の域にまで物体を高める》とき《二重の運動》があるとして、一つは《記号と言語へ向かう物体の憧れ》、もう一つは《その言語的表現の手段によって、あたりまえならば隠されている物体の特性-人間精神の構造と機能の様式と共通しているあの特性そのもの-を発見あるいは知覚することを可能ならしめる運動》であるとしています。
レヴィ=ストロースは明らかに言語の働きに着目しています。むしろ、言語的表現こそ、物体の記号化に不可欠であると言っているようにも思えます。そうであれば、物体としての建築を、意味ある建築ならしめる、そのときも言語の働きが関係してくるのではないか、そんなふうに考えてみました。
デザインと言語の関係について考えてみたいと思います。そのために、ジョルジョ・アガンベンの著作を読んでみようと思います。
(2021/05/03)
「建築の四層構造」2回目
今回は第3部第1章のうち、「近代建築の四要素」(pp.155-161)を読んでみます。ここでは「建築の四層構造」の歴史的背景について考察がされています。近代建築史においては、さまざまなデザイン思想(モダニズム、ポスト・モダニズム、ハイテック、エコテックなど)が提唱され移り変わっていったように見えます。これに対して難波は、「建築の四層構造」を使って近代建築史の《底流に潜む不変的な構造》(pp.156)をあぶりだそうとします。まずモダニズムについて検討しています。
モダニズムは、鉄、コンクリート、ガラスといった当時の最新技術によって建築を構築しようという運動であったことから、《技術主義》(pp.156)であるとしています。ただし、スイスの建築史家ジークフリード・ギーディオンの『空間・時間・建築』および『機械化の文化史』においては、設備技術やエネルギーの視点から建築の可能性を論じることはなされていないとしています。そうした中で唯一、近代建築における環境制御技術の重要性に着目したとして、英国の建築史家レイナー・バンハム『環境としての建築』を挙げています。『環境としての建築』の原書(※1)は1969年に刊行されていますので、1970年代のオイルショックよりも若干ですが早い時期に、建築におけるエネルギー性に着目していたということになります。
余談ですが、哲学者の國分功一郎は、ハイデッガーが1955年の講演で現代は「原子力時代」であると語り、原子力技術の平和利用に対しても警鐘を鳴らしていたことを紹介しています(※2)。難波は1950年代の建築の状況については明確には言及していないようです。1950年代の建築の状況はどうだったか、また「原子力時代」という視点からみた場合、近代建築史はどのように読めるのでしょうか。
話しをもどします。難波はモダニズムの《機能主義》(pp.158)の側面についても言及しています。モダニズムは、《歴史的様式から装飾を剥ぎ取り、新しい機能を抽象的な形態に当てはめようとした》(pp.158)としています。こうした考えのもと、19世紀末から20世紀初頭にさまざまなデザイン運動がおこりました(アール・ヌーヴォー、分離派、デ・スティル、アール・デコなど)。これに対して難波は、機能主義を旗印としたデザイン運動の多様性そのものが、《機能と形態の結びつきに歴史的な必然性が存在しないことを証明している》(pp.159)としています。こうして難波は、《モダニズムとは技術主義と機能主義の複合体だった》(pp.159)と結論付けています。
次に、1970年代に興ったポスト・モダニズムについて考察しています。難波は、《ポスト・モダニズムは建築の形態を優先させようとした。ポスト・モダニズムはモダニズムが無意識のうちに抑圧していた形態の働きを明るみに出したのである》(pp.160)としています。
以上のようにモダニズムとポスト・モダニズムの流れを概観した結果、《近代建築を構成する重要な要素として、技術、機能、形態という三要素を抽出することができる》(pp.161)としています。前回読んだように、「建築の四層構造」では技術を建設技術(物理性)と環境技術(エネルギー性)に分けていました。これについて、《エネルギー要素は形態要素と同じように、モダニズムの無意識的な条件として潜在してきた》(pp.161)としています。
このように、近代建築史から「建築の四層構造」を抽出することができると同時に、「建築の四層構造」にもとづいて近代建築史を読むこともできるようです。
※1 Reyner Banham, The Architecture of the Well-Tempered Environment, 1969.
※2 國分功一郎,原子力時代における哲学,晶文社,2019.
(2021/04/18)
熊本地震関連文献を読む
2回目
引き続き熊本地震関連の文献を読んでいます。国総研の熊本地震の被害調査報告書(1)のなかで、益城町における倒壊率の分布図(pp.5.2-2)をみると、倒壊率の高い範囲と倒壊率が低いもしくは0%の範囲がかなりはっきり分かれているようです。倒壊率の高い範囲は古くから集落があった場所におおむね重なり、地形としては段丘面です。その一方、1970年代から住宅地となったと思われる氾濫平野や旧河道のエリアの大部分で倒壊率が0%となっています(文献(1)、pp.5.2-3)。
国総研の報告書(1)も指摘していますが、これは一般的な被害とは逆の傾向を示しているように見えます。特に、地盤としてはそれほど強くないと思われる氾濫平野や旧河道において、そのうえに建つ建築物の被害が小さかったことは不思議です。旧耐震基準(1981年5月以前)の建築物、2000年6月以降の建築物の分布はどちらも調査範囲全体にばらけているようですので(文献(1)、pp. 5. 2-6)、耐震基準の違いだけで倒壊率の分布を説明するのは難しそうです。
倒壊率の分布がどうしてこのようになったのか、要因のひとつとして考えられるのは、地盤の違いです。そこで、下記の論文をみつけたので読んでみました。
山田雅行ら「2016年熊本地震における益城町での被害メカニズムの解明~地盤特性の影響~」、土木学会論文集A1(構造・地震工学)、Vol. 73、No. 4、I_216-I_224、2017.
この論文では、常時微動を用いて地盤調査を行ったうえで、地盤の非線形地震応答解析を実施して地表面の地震動を推定しようとしています。検討の対象は益城町の中心部で建築物の被害が大きかった県道28号線と秋津川の間のエリアです。このなかで被害が大きかったのが段丘面のエリア、被害が小さかったのが氾濫平野または旧河道のエリアとおおよそ区別できるとしており、これは国総研の報告書と同様です。
対象エリアの近くのボーリング柱状図からは、地表面に火山性堆積物(粘性土)が堆積していることが分かるようです。この地表面の堆積層(第1層)は地盤としては軟弱であると考えられます。調査地の地盤の標準モデルを推定した結果、段丘面のエリアの第1層は薄い傾向がみられた一方、氾濫平野または旧河道のエリアでは第1層が5m以上の地点が多く、10m以上となる地点もあったようです。
この軟弱な第1層の厚さの違いが地表面の地震動にどのような影響をおよぼすか?それを検討するため、益城町で観測された地震動を使って地盤の非線形地震応答解析を行い、地表面の地震動を推定しています。その結果、地盤増幅については、段丘面エリアでは2Hz(周期1秒)にピークがあり、氾濫平野または旧河道エリアでは0.5~0.7Hzという低周波数の帯域でピークがあったようです。また、地盤の応答加速度スペクトルについては、木造住宅への影響が大きい1~2Hz(周期0.5~1秒)の帯域で比較すると、氾濫平野または旧河道エリアの方が段丘面エリアより応答が小さくなる傾向がみられたようです。
以上をまとめると次のようになるでしょうか。
氾濫平野または旧河道のエリアでは地表面に軟弱な火山性堆積物が5m以上(なかには10m以上)も存在していると推定される。そのようなエリアでは、木造住宅への影響が大きい周期0.5~1秒の地表面の揺れは小さくなった。これは、氾濫平野または旧河道のエリアで木造住宅の被害が小さくなった要因のひとつと言えるのではないか。
この論文から、粘性土の軟弱層があまりに厚いと、地盤増幅の特性が変化(低周波数成分が卓越)し、木造住宅の被害を低減するかもしれない、ということが分かりました。この知見がおおむね妥当だとすれば、例えば地盤改良などを施すことで、地盤増幅のスペクトルのうち、2Hz(周期1秒)の付近の帯域を抑え、より低周波数の帯域が卓越するようにする(周期を1秒より長くする)ことができれば、木造住宅の応答を低減することができるかもしれないということでしょうか。これはいわば地盤改良による免震のようなものですが、はたして現実性はあるのかどうか…。
参考文献
(1) 国土交通省国土技術政策総合研究所「熊本地震における建築物被害の原因分析を行う委員会 報告書」,2016.(http://www.nilim.go.jp/lab/hbg/0930/pdf/text.pdf 2021年4月14日閲覧)
(2021/04/16)
熊本地震関連の文献を読む
1回目
5年前の2016年4月14日に熊本地震の前震が発生しました。熊本地震では住宅や宅地の被害も多く、住宅設計にあたえる影響も大きかったです。熊本地震での教訓をいまいちど確認し、その後の経過なども知っておくべきだと思いました。熊本地震では、ほぼ同一の地域で震度7の地震が2度も発生したことが衝撃的でした。今回、熊本地震での木造住宅の被害について再度確認しました。
1981年、2000年に木造住宅の耐震性に関係する建築基準法の規定が改正されています(※1、※2)。また、建築基準法とは別の法律にもとづいて、住宅性能表示制度が2000年から運用されています。住宅性能表示制度に基づく耐震等級(構造躯体の倒壊等防止)は1、2、3の3段階が設定されています。等級1は建築基準法の求める耐震性と同程度、等級2は建築基準法の1.25倍、等級3は建築基準法の1.50倍程度の余裕があると言われています(※3)。熊本地震による被害を調査することで、1981年基準および2000年基準の前後の木造住宅の被害の違い、さらには、建築基準法レベルの木造住宅と耐震等級2または3で設計された木造住宅の被害の違いを比較することができたようです。
被害調査の結果、2000年基準以降の木造住宅は、それ以前の木造住宅に比べ被害が軽減されていたことが確認されたようです(1)。つまり、2000年基準の有効性が一定程度示されたのではないかと思います。なかでも、耐震等級3を取得した木造住宅はほとんどの事例において無被害で、被害があった事例でも軽微なものだったようです(1)。この耐震等級3の結果は当時かなり注目されましたし、現在これを理由に耐震等級3の取得を推奨する向きもあるようです。ただ、被害調査の事例のなかで、住宅性能表示制度にもとづいて耐震等級を取得した木造住宅の棟数は少ないようですので(1)、地盤特性の違いなども考慮にいれながら、有効性の検証は注意深く行われるべきだと思います(耐震等級2の有効性や、耐震等級3を上回る性能の必要性など含め)。
また、倒壊したケースでは筋かいや柱梁の接合部金物が不足していた例が多かったことも指摘されています(1)。接合部金物や耐力壁の設計・施工をしっかり行うこと、これは木造住宅の基本ですので、その重要性はあらためて認識されるべきだと思います。
私は住宅設計において、可能なかぎり建築基準法の1.50倍(耐震等級3相当)、少なくとも1.25倍(耐震等級2相当)の壁量を確保することにしています。また、シンプルな架構とすること、バランスよく耐力壁を配置することなども心がけています。
その他の関連する文献も読んでみたいと思います。
※1 1981年(昭和56年)の建築基準法改正による耐震基準を「新耐震基準」、それ以前の耐震基準を「旧耐震基準」と呼ぶことが多いです。ここでは、「新耐震基準」のことを「1981年基準」と呼んでいます。
※2 2000年(平成12年)に接合部金物などの基準が明確化されました。ここでは「2000年基準」と呼んでいます。
※3 必要壁量の算定において、建築基準法で想定している建物重量と、住宅性能表示制度で想定している建物重量が異なるため、耐震等級が建築基準法と比べて何倍の性能がある、ということは一概に比較できないとする指摘もあります(大橋好光「熊本地震と木造住宅の耐震性能」、建築技術2017年7月号、No. 810、建築技術、pp. 68-69、2017.)。
参考文献
(1) 国土交通省国土技術政策総合研究所「熊本地震における建築物被害の原因分析を行う委員会 報告書」、2016.
(http://www.nilim.go.jp/lab/hbg/0930/pdf/text.pdf 2021年4月14日閲覧)
(2021/04/14)
難波和彦
「建築の四層構造-サステイナブル・デザインをめぐる思考」、INAX出版、2009.
1回目
約10年前、建築をはじめたころ、建築や住宅の設計について基本的なことを学ぼうと思い「建築の四層構造」を手にとりました。著者の難波和彦さんは「箱の家」で知られる建築家です。本書では近代建築史や建築設計についての難波さんの考え(理論)が記されています。建築家や建築史家の著作を中心に、心理学、文化人類学、経済学、言語学、哲学、脳科学などありとあらゆる学問の知見を参照しながら議論が展開されていますので、はじめて読んだ当時はかなり苦労しました。というか、ほとんど理解ができなかったと思います...。本書のタイトルにもなっている「建築の四層構造」という概念は、建築史を見通したり建築を考えるうえでとても参考になると思いますので、再読して学び直そうと思います。
第3部「サステイナブル・デザイン論」の第1章「建築の四層構造」(pp. 146~)を読んでみます。ここでは、「建築の四層構造」理論の体系化がなされ、デザイン行為への適用について検討されています。この章で難波は、自身のテーマである「サステイナブル・デザイン」の理論的根拠として「建築の四層構造」を体系化することを試みます。まず、建築を構成する要素について整理して、マトリクスに整理するところから始めます。はじめに、ローマ時代の建築家ウィトルウィウスによる建築の三要素をとりあげています。ウィトルウィウスは、
強 用 美
の三要素で建築が定義できるとしました。これは私も大学の学部生のときに講義で聞いたことがあり、建築の分野では有名な考え方だと思います。難波は、これを近代建築の言葉に変換した場合、《「強」は耐久性、「用」は機能性、「美」は形態である》としています。さらに難波は、サステイナブルな建築の要素として「エネルギー」を追加し、次のように建築の四要素を提示します。
1-建築は、物理的な存在である。(物理性)
2-建築は、エネルギーの制御装置である。(エネルギー性)
3-建築は、生活のための機能をもっている。(機能性)
4-建築は、意味をはらんだ記号である。(記号性)
この四要素については、なるほど確かにこのように抽出することができるかもしれない、と思います。
難波は、四要素をそれぞれ「層」とみなして、それぞれの層は、
視点(建築の様相)
プログラム(デザインの条件)
技術(問題解決の手段)
時間(歴史)
サステイナブル・デザインのプログラム
という五つの局面でとらえることができるとし、四つの層と五つの局面をマトリクス(表)にまとめています(pp. 150)。この表が難波が提示する「建築の四層構造」の全体像であると思います。そして難波は四つの層とそれぞれの局面について詳細に説明をしていきます。その中でも私が注目したのは、第四層(記号性)の時間(歴史)の局面です。ここで難波は、《建築や都市が持続する最終的な条件としては、それが文化的な財産として根づくかどうかが決定的である》と言い切っています。いくら建築の耐久性が十分で構造が強靭でも、機能が見劣りするようになり使い勝手がわるくなってしまえば壊されてしまう、というわけです。これは私も実務のなかで実感することがあります。例えば住宅の建て替えの場合、いま住んでいる住宅の傷みがはげしいから、ということが理由で依頼されるケースは少ないように感じます。家族構成が変わったから、親から住宅を相続したものの自分の家族が住むには不便だから、といった動機が多いような気がします。
したがって難波は、《コンバージョン(用途変更)やリノベーション(改築)によって機能的な寿命を長くすることが重要》であるとしています。また、住宅におよぼす記憶の作用についても言及しており、《住宅ならば、住人がそこに住み込み、家族の記憶が残っていれば、物理的な耐久性が限界であっても、それを壊そうとは思わないだろう》としています。この指摘には、私も同意します。建築と人とが関係を築いてきたその記憶は、建築が維持される動機、建築が建築として存在し続ける理由になりうるのではないでしょうか。なお難波は、《伊勢神宮の式年造替のように物理的存在ではなく文化的記号(意味)だけが持続するような場合もある》ということも述べていて、興味深い指摘だと思います。
ここまでをいったんまとめます。難波はウィトルウィウスの建築の三要素に「エネルギー」を加えて「建築の四層構造」のマトリクスを提示し、その四層が意味するところや各層の相互関係について述べています。難波の議論のなかで、私は第四層の記号性と記憶(時間、歴史)が特に重要ではないかと考えました。それは、第四層の記号性と記憶が、建築が人びとに受け入れられ使用され続けるのに、すなわち建築が建築として存在することに対して、なにか重要な働きをしているのではないか思われるからです。
(2021/04/13)
Beatriz Colomina
「X-RAY ARCHITECTURE」, Lars Müller Publishers, 2019.
建築と、病気および画像診断技術との関係を論じた本です。特に、結核とX線技術が、同時代の建築そして現代建築に対して及ぼした影響に着目しているようです。病気や公衆衛生と建築との関係は重要なテーマと思われますが、いままであまり深く考えたことはありませんでした。コロナ禍にあるいま、あらためて考えてみる必要がありそうです。病気や治療が建築に影響するのはなんとなくイメージできるのですが、本書はX線やMRIなどの画像診断技術にも注目しています。これらと建築との関係について、どう論じているのか興味があります。
『the hypothesis of this book is that modern architecture was shaped by the dominant medical obsession of its time - tuberculosis - and the technology that became associated with it - X rays』(pp. 10)
イントロダクションで、近現代の建築の形態は、同時代の医学にとって大きな関心事であった結核、そしてその診断技術であるX線に大きく影響を受けた、という著者の仮説が提示されています。
『The modern subject has multiple ailments, physical and psychological, and architecture is a protective cocoon not just against the weather and other outside threats, but in modernity, more notably against internal threats: psychological and bodily ailments.』(pp. 71)
近現代の建築は、風雨などの外の脅威(outside threats)だけではなく、結核をはじめとする身体的な病気、心理的な病気という内の脅威(internal threats)からも人間を守ることが求められるようになったとしています。
『The horizontal itself becomes emblematic of health. Both the horizontal view from the inside and the view of horizontals from the outside induce health. The sanatorium aesthetic was itself medicinal - able to transform any building into a form of therapy.』(pp. 113)
結核療養所には、患者がベッドに横たわって日光浴したり新鮮な空気にふれるため、水平に長いテラスが設けられていました。このことから、建築の水平な形態が、健康の象徴になったとしています。また、療養所の美しさ、それ自体に薬効とも言えるものがあったとしています。
結核療養所が備えていた建築的な要素(「療養所の美学 sanatorium aesthetic」とも本書では言っています)-水平が強調された形態、なめらかな白色の表面、陽が入り風が通る開口部、など-が人びとに健康をイメージさせるようになった、というのは興味深かったです。これらの要素は、現在ではどの用途の建築にも見られるものです。結核が恐れられていた時代から現在に至るまで、健康に執着するのは変わっていないばかりか、より強くなっているとさえ思えます。20世紀初頭の「療養所の美学」が、現在の建築においても有効なのは、人びとが健康への強い執着を今もなお持ち続けていることの現れ、ともとれるのではないでしょか。
『The seemingly fragile cloudy space of the X-ray becomes an architecture in its own right that can be inhabited and is inhabited. All the ostensible sharpness and clarity of modern architecture gives way to soft layers of reflections and translucencies. X-ray architecture is an occupiable blur.』(pp. 149)
X線画像は、骨などはっきり見えているところもありますが、体の輪郭などぼやけている部分もあります。そういった、一見すると壊れやすそうで、曇ったように見えるX線画像的な空間は建築になりうる、ということを指摘しています。近現代の建築、とりわけガラスが多用された建築は、表面的には鮮明で透明に思えますが、視覚的には反射と半透明のやわらかな層が重なったように見えると言っています。つまり、X線画像のイメージと、近現代の建築の視覚的なイメージが重なるということでしょう。
(2020/06/26)
國分功一郎
「中動態の世界-意志と責任の考古学」、医学書院、2017.
「原子力時代における哲学」を読んで、國分さんのその他の著作が気になり、読むことにしました。じつは、出版当時に本書を購入していたのですが、言語学や哲学に関する込み入った議論になかなかついていけず、そのときは途中であきらめてしまいました。『原子力時代における哲学』とともに、建築を考える上でもとても参考になる議論が展開されている予感がしましたので、これを機にじっくり取り組みます。ある程度まとめたら書きたいと思います。
(2020/06/15)
ジョルジョ・アガンベン
「書斎の自画像」岡田温司 訳、月曜社、2019.
『濃いけれども輝いている霧や、自己に向けられた鎮めがたい興奮に、書くことによって到達するのは不可能だ。神秘の扉は開いていて入れてはくれるが、そこから出させてはくれない。その閾をまたぐことのできる瞬間はやってくるのだが、もはやそこから抜け出せないことが徐々にわかってくる。』(pp. 19)
『みずからを見いだすことなく家にいること。どこにいるにか実のところわからない、それだけが確かな家だ。もしくは、ある地点にいるのだと、その地点だ、そこだと感じるのだが、それを空間と時間のなかに位置づけることはできない。わたしたちが住んできたあらゆる場と、わたしたちが生きてきたあらゆる瞬間は、わたしたちを取り囲み、そこに入るように促すのだ-わたしたちはそれを見て、ひとつひとつ呼び出す-が、どこから入ればいいのか。その場所は、どこにでもあって、しかもどこにもない。自分自身にたいして親密なる異邦人となること-もはや祖国も母国もなく。わたしたちが引きずっているもの-習慣、服(癖)、思い出-は、あまりにも多くて、もはやそれらを抱えきれないほど。』(pp. 21)
『書斎=アトリエは、潜勢力-作家にとては書く潜勢力、画家や彫刻家にとっては描き彫る潜勢力-のイメージである。みずからの書斎を記述しようと試みることは、それゆえ、みずからの潜勢力の様態や形式を記述しようと試みることを意味する-が、それは少なくとも一見したところ、不可能な課題である。』(pp. 27)
『潜勢力はいかにして所有されるのか。潜勢力は所有されうるのではなくて、ただ留まりうるだけである。』(pp. 27)
『誰かが愛されるのは、彼もしくは彼女が思い出されているからであり、反対に、誰かが思い出されるのは、愛されているからである。…(中略)…。だがまた愛は、現実にはその思い出を持つことができないこと、それが思い出の彼岸にあって、思い出せないほどにずっとどこかにあることをも意味している。』(pp. 33)
『古代の都市では、広い空間が下界=世界 mundus に捧げられるが、この丸い穴のような空間は、死者のいる地下の世界と生者のいる地上の世界とを交流させる…(中略)…、人間はただ単に存在の開かれのなかに住まうのではなくて、なかんずく、過去と現在、生者と死者のあいだの通路に住まうのであり、開かれを忘れないでいられるのは、この地下の住まいのおかげなのだ。』(pp. 70-71)
『「外に Extra」-「~の外に」(内から ex 出発して出て行こうとする運動の観念)。真理に近づくのを阻んでいる状況-あるいは組織-からまず出て行かないとしたら、真理を見つけることは不可能である。哲学者は、自分の町にたいして異邦人とならねばならない。…(中略)…。「エクストラ」とは思考の場である。』(pp. 80-81)
『イデアとは、意味作用のある言語活動が名において廃止される地点である。そして哲学は、声を前にして言語がないこと、言語を前にして声がないことをそのつど受け入れるエクリチュールである。』(pp. 148)
(2020/06/07)
梨木果歩
「風と双眼鏡、膝掛け毛布」、筑摩書房、2020.
『東日本大震災で被災し、生まれ育った故郷を離れて暮らさざるをえなかったSさん(大熊町)の、望郷の思いと重なりました。取材の最後のほうで、ポツンと「帰りたい。いいって言われれば、今すぐにでも帰りたい。飛んで帰りたい」とおっしゃっていた。ひとはこんなにも分かち難く土地と結びついている。長い年月をかけて思いをかけられた地名は、ときに生きていくエネルギーを鼓舞し、ときに鎮魂の役割もしてきたのでしょう。』(pp. 223)
『Sさんの心の根っこは、まだ大熊町に「定住」している。「スーパー行っても、ただ歩いてても、お店入っても知り合いばっかり。知ってる人が空気のようにまわりにいる。それがあたりまえの世界だった」。定住とは、自分自身と分かち難く、場所を愛すること。』(pp. 96)
『そうなのだ、その、なんというか、日常においては猥雑な生活が、「旅にしあれば」清潔に単純化される、それは、まるで麻薬のような快感なのである。』(pp. 54)
『便利な自動車道ができると情報や物資は入りやすくなるが、その同じ道を通って人もまた出ていきやすくなり過疎になる。流通と生活の質は比例しない。人が十分に生きるための「程よさ」、という尺度が、道の大きさにはあるのかもしれない。』(pp. 186)
『ふふ。僕の部屋は二階にあって、海が見えるんです。火力発電所の大きな煙突も。夜になれば、昼間は聞こえない、火力発電所が煙出すときの音が聞こえるんです。ぽうって。煙突が煙吐くんです。真夏になると窓開けて寝るんだけど、海からの風が寒いくらい涼しくて、いつも、腹にタオルケット掛けて寝てたなあ。 目に浮かぶようです。 やっぱり、海が好きなんです。嫌いになれない。 ええ。ええ。』(pp. 124)
(2020/06/06)
「久門剛史 らせんの練習」展覧会カタログ、豊田市美術館監修、torch press、2020.
『できるだけ作品を見る人々には、空白を渡したいと思っています。
その空白を自分の過去や未来、現在の何かにみたてて、自由に描いてもらいたい。
そうやって、人々の心の中で美術を機能させてほしい。』
(久門剛史:「無いことの豊かさ」)
『《らせんの練習》…(中略)…、決して声高ではないが、彼の制作活動の指針を示唆するものが見えてくる。それは、私たちが生を営む日常のなかから、目に見えないたいせつなものをすくい上げ、出来うるかぎり明快で美しいかたちを与えて、見えるようにすること。』
※1に基づくキーワード
螺旋運動、微小なズレ、光と音、彫刻、野村仁、時間、東日本大震災、日常、自然の美しさと猛威、繰り返し、持続、均衡、隠れている世界、コンピュータと奇跡、安定と不安定、バランスと崩壊、荘厳さと怖さ、人間と自然
※1 都筑正敏:「うつむかず、顔を上げて踏み出していくために-久門剛史《らせんの練習》を巡って」)
京都市立芸術大学の学生による久門剛史さんへのインタビュー
https://www.kcua.ac.jp/profile/interview/arts/art_18_hisakado_1/
(2020/06/04)
内藤廣「構造デザイン講義」、王国社、2008.
内藤廣「環境デザイン講義」、王国社、2011.
内藤廣「形態デザイン講義」、王国社、2013.
建築家でありながら東京大学社会基盤学科の教授を務めた内藤廣さんによる、東京大学での一連の講義を元にした本です。大学生のころから、建築家にもかかわらず大学の土木系学科の教員になられた内藤さんの経歴に興味をもっていました。またここ数年、内藤さんの設計した建築に訪れる機会が続き、これを機に内藤さんの設計に対する考え方を勉強しようと、読むことにしました。「環境デザイン講義」の出版後に東日本大震災が発生し、震災当日は最終講義の日だったそうです。震災後しばらくは「形態デザイン講義」の出版のことは考えられず、震災から2年ののち、出版を決意されたそうです。内藤さんはこう書いています。
『いまこそ、形に関わる若者は、そして、建築・都市・土木に関わる若者は、勇気をもって思考を未来に向けなければならない。』(「形態デザイン講義」pp. 253)
内藤さんは『「待つ」という建物の在り方』があるのではないかと言います。そして、それは『未来から待っている』。さらに、建物から拡張して、私たちを待っている『風景』もあるとしています。内藤さんは設計にあたり、その地域の文化、地形や気候、歴史など丹念に調べていきます。その中から、敷地や地域にとってふさわしい建物の形態、素材や工法を見つけていきます。そうして生み出した建物は、物理的な耐久性や構造的、環境的な性能が高いのはもちろんですが、人々に大事にされ受け継がれていくでしょう。さらに、その建物に呼応するように、周りの建物や街、人々の活動が意味のあるものとなり、やがて風景が形成されていく。
内藤さんのこの方法は、國分さんの言うハイデッガーの「フュシス」ともつながるのではないか、と思います。内藤さんはその敷地の「フュシス」を洗い出し、そこから「テクネー」を上手に使って、新しい形、新しい建築を引き出して示そうとしていると感じました。
僕は本書を読んでいて、「過去」も待っているのではないかという気がしました。その土地が歩んできた時間、その中で育まれてきたものを探し出し、見つけてほしいと、「過去」が待っている、またはそう問いかけているのではないでしょうか。しかし、建築家は過去をそのまま受け継ぐのでは不十分で、内藤さんの言う『翻訳』をして、新しい形を提示する必要があります。「未来」と「過去」がいまの私たちを待ってくれている。私たちはそれに、素直な気持ちで向き合う必要があります。
memo :
訪れたことのある内藤廣建築設計事務所設計の建築や関連施設(訪問年)
・とらや工房(2019)
・富山県美術館(2018)
・安曇野ちひろ美術館(2017)
・山代温泉 総湯・古総湯(2017)
・マッカリーナ(2016)
・海の博物館(2010)
『益田という街にとっては、どうしても広場と水盤というのはなくてはならないものだと、計画の初めの頃から思っていました。…(中略)…。近世の時間。おそらく四〇〇年ぐらいの時間。その「失われた時」をもう一度想起させるような場所をつくる。目の前に無いものを想起させる、失われたものを想起させる、これも極端な形でのノスタルジーでしょう。そのためには、現実に存在する物質を介してでは限界があります。それは水盤しかありません。これは僕がやろうとした究極的な「時間の翻訳」の姿です。』(「形態デザイン講義」pp. 186)
『「待つ」という建物の在り方もあるんじゃないかと思っているんです。この場合、誰を待つか、何を待つかは問わない。どこから待っているか、が大切です。それは未来から。遠い未来から待ち続けているのがこの建物なのです。…(中略)…。これは現代に一番欠けているものかも知れません。都市計画にも、建築にも、土木にも欠けている思想として、「待つ」という思想があるんじゃないかと思っています。…(中略)…。自分の生み出したものが、自分の命を超えた、自分のいない未来から待っている、あるいは待ち続けている、と考えるのは楽しいことです。』(「形態デザイン講義」pp. 188)
『信念と想像力だけでは足りない。時間の重みに耐えられない。信念は揺らいだり、想像力はしぼんだりするから、それらをコントロールする方法論、君たちなりの方法論がどうしても必要だと思います。』(「形態デザイン講義」pp. 223)
『仮にみなさんに建物の設計の依頼があったとします。だけど、千年保たせてくださいと言われたら、カタチのバリエーションはどのくらい残るんだろう。…(中略)…。相手にする時間が短くなればなるほど、ほとんど無限のバリエーションになってくる。そういうのを後生大事に、上手いの下手なのと言い合ってやっているのが今の建築界だと言えなくもない。でも逆に、土木はどうなんでしょう。土木は、いやぁ僕らは一〇〇年だから、といってやっているわけだけど、そこに明日や来年の希望はあるのか、と問いたい。建築のようなバリエーションを侮蔑しながら、土木は一体何をやってきたか。人間の事なんか考えないで、構造的な合理性と経済的な合理性を、いつしかそれのみが人々の求める公共性だと思い込んでいやしないか。…(中略)…。一〇〇年といったって、本当に一〇〇年の未来から現在を待っているのか。』(「形態デザイン講義」pp. 248)
『「素景」。今、こういう言葉がありうるんじゃないかと思っています。…(中略)…、単純にいえば、「変わらないもの」ということでしょう。もう一つ言うと、…(中略)…、「待つ」ことのできるものということです。ある風景を見た時に、その風景は変わらずに未来から私たちを待っている、というふうに思えるような景色があるのではないか。』(「形態デザイン講義」pp. 249)
(2020/06/04)
小友聡
「NHKこころの時代~宗教・人生~ それでも生きる 旧約聖書「コヘレトの言葉」」、NHK出版、2020.
牧師で東京神学大学教授の小友聡先生が講師となり、旧約聖書の「コヘレトの言葉」についてお話しくださるNHKの番組のためのテキストです.番組は4月から9月にかけて6回にわたり放送される予定でした.第1回は放送され視聴しましたが、COVID-19の影響で収録が延期になり第2回放送は秋以降の予定のようです.聞き手は若松英輔さんで第1回放送は非常に興味深く視聴しました.第2回以降の放送を楽しみにしつつ、とりあえずはテキストを読んで予習しようと思います.世界には終末があり、『終末到来後の「来世」に強く憧れ、現世に価値を置かない』(pp. 104)という「黙示思想」は、キリスト教のイメージとしてありましたので、コヘレトがそれを否定し、『悪しき病』(6章2節)とまで言っているのは驚きでした。しかし、『現世に価値を置く』(pp. 104)のは『伝統的なユダヤ民族の考え方』(pp. 104)でもあったと小友先生は言います。旧約聖書の諸文書は、『三千年ぐらい前から、一千年近い年月をかけて』(pp. 16)、書かれてきたものであり、それぞれの文書が書かれた時代背景を踏まえて読み解く必要があると小友先生は言います。聖書は一貫した考え方で貫かれていると思っていましたが、むしろ長い時代を経て蓄えられた「知恵」の集積なんだと、あらためて気づかされました。そして何より、人生はヘベル、束の間で儚いゆえに価値があり、今を精一杯に生きよというコヘレト、そして小友先生のメッセージが胸を打ちます。
memo :
・2018年に出版された「聖書協会共同訳」 → 1987年出版の「新共同訳聖書」の訳文を見直した
・「コヘレトの言葉」:旧約聖書「文学書、知恵文学」の一つ
・旧約聖書の多くの部分、伝統的な考え方:応報思想 ⇔ 知恵文学の「ヨブ記」・「コヘレトの言葉」:応報思想の否定
・不安定で先が見通せない時代に「コヘレトの言葉」は書かれた
→ 神を信じたからと言って豊かになる保証はない
→ 現代に通じる「どう生きるか」という問いかけ
・「空」:ヘブライ語「へベル」
・「風」:ヘブライ語「ルーアハ」:消えていくもの、儚いもの
・小友先生の考えるコヘレトの言う「空」:虚無、空虚、無意味、…ではなく「束の間」
・「空である人生」:「人生は束の間である」、「人生は限られている」 → 日常の小さな幸せや喜びに気づく
・「カイロス」:時計では計ることができない「質的な時間」、一瞬でありながら永遠でもある
・「クロノス」:過去、現在、未来と不可逆的に連続している時間
・コヘレトが「時の詩」(3章1-8節)で繰り返す「時」とは「カイロス」のこと
『旧約聖書には、「申命記」をはじめとして、厳格な応報思想が貫かれた部分が多く、それは旧約聖書の思想全体の主旋律になっています。ところが、…(中略)…。現実に照らせば、「箴言」にあるような応報思想の知恵には限界があるのです。見方によっては、短絡的で楽観的な知恵と言えるかもしれません。…(中略)…。その「箴言」と対照的なのが、知恵文学の「ヨブ記」です。…(中略)…。「ヨブ記」は、旧約聖書の応報思想を退け、伝統的な知恵を根底から覆していると言えます。伝統的な知恵が危機にさらされ、新たな知恵が模索されていると言ってもよいでしょう。…(中略)…。そのヨブ記の延長線上に「コヘレトの言葉」という、もう一つの知恵文学があるのです。』(pp. 20)
『ヨブは、次々と襲いかかる災いの「時」が、神の秘儀であり、決して明かされないことを悟ったのです。なぜそんな「時」が訪れたのか。それは神に問うことではなく、自分が神に対して答えなければならない。神が与えてくださった「時」を、どう生きるか。ヨブは、悔い改めたのではなく、むしろ生き方の方向転換をしたのだと私は解釈します。』(pp. 67)
『悲しみや痛み、生きづらさを抱えながら、誰もが人生を歩みます。けれども、コヘレトは言います。「すべての出来事に時がある」と。その「時」は、悪い時だけではありません。今、悪い時と思っても、あとから振り返れば、意味のある時だっとわかるかもしれません。そんな今という「時」が、神からの賜物なのです。人生がたとえヘベルであっても、いや、ヘベルであるからこそ、神から与えられた今という「時」を生きよ。コヘレトの「すべての出来事に時がある」は、そんなメッセージのように思います。』(pp. 73-74)
『権力者による不正がはびこり、常に監視される息苦しい社会。コヘレトの語る言葉により、当時の悲惨な社会がリアルに浮き彫りになりました。ところが、悲惨な社会の中で、コヘレトの知恵は、意外にも悲観的ではありません。…(中略)…。(「コヘレトの言葉」4章6節を引用して)苦労して「両手」ですべてをつかもうとするよりも、「片手」で得られるもので充足し憩うほうがすっといい、という意味です。…(中略)…。現実は応報思想のとおりにはいかないのです。その厳しい世界の中で、コヘレトは「片手を安らぎで満たす」という生き方を勧めています。言い換えれば、それは「今あるものに目を向ける」という生き方です。…(中略)…。今あるものに目を向けて、幸せに生きよ、と積極的に提言するのです。』(pp. 95-96)
『旧約聖書の知恵文学は、基本的に「地上でどう生きるか」を考えるものです。地上の人生とは、死に至るまでの現世のことです。死の向こうにある世界については考えません。…(中略)…。人間は神によって造られたのだから、最後は塵に帰り、神のもとに行きます。その先は考えないのが知恵文学です。だから、人生の終わりが、いわば「終末」だとコヘレトは考えました。…(中略)…大事なことは、終わりのないこの世界で、終わりのある人生をどう生きるかです。そのヘベルの人生を、どう生きるか。コヘレトは、極めて現実的に考えて、今そこにある幸せを見つめました。』(pp. 120)
『世界には終わりがありませんが、人間という存在は有限で儚い。人生はまるで風のように束の間で、人間はあっという間に塵に帰ります。けれども、コヘレトは儚いから意味がないとは決して考えません。人間の一生はヘベルだからこそ、意味があるのです。ヘベルだからこそ、神から与えられた今のこの命を、精一杯生きよ。そんな逆説的な死生観が立ち上がってくるようです。』(pp. 128)
『蒔いた種がうまく芽を出すかどうかは、誰にもわかりません。どの種も芽を出さないかもしれません。未来の「時」は、人間には知り得ないのです。それでも、いや、それだからこそ、種を蒔き、耕す手を休めるなとコヘレトは言います。地に足をつけて、自分の人生を精一杯生きよと言うのです。』(pp. 142)
(2020/05/29)
溝口明則
「建築 世界 宗教 古代建築」中川武編、丸善出版、2019.
建築史家で早稲田大学名誉教授の中川武編のシリーズの一冊です。建築史家の溝口明則さんが世界の古代宗教を概観しつつ、宗教的思想と建築との関係・発展過程ついて論じています。溝口さんによれば、農耕の創成期から小国家が群立する時代の居住施設は、その土地で容易に手に入る材料でつくられた簡易なものが多かったようです。そのため風雨により短期間で朽ち、そのたび建て替えが必要でした。大きな権力をもつ王が統治する専制国家が成立する時代になると、恒久的な施設が必要とされるようになりました。特に雨への対応は重要だったようです。古代ギリシャの黎明期においては、馬蹄形平面・日乾レンガ壁・木造小屋組・草葺き屋根で、壁の周囲に木造の柱を立て軒を出した例がみられます。馬蹄形平面なのは草葺きの屋根を載せやすくするためと考えられ、瓦の普及により矩形平面に置き換わっていったようです。そして軒を支える木造柱は石造柱に置き換わっていきました。このように、その時代の大きな流れと技術の発達、それにともなう平面と意匠の変化など具体的に記述され理解しやすいです。本書に書かれている発展過程をみると、古代の建築においては、時代の要請と技術の発達が先にあり、建築の平面はそれに追随していったということが言えるのかもしれません。
(2020/01/05)
大月敏雄
「町を住みこなす 超高齢社会の居場所づくり」、岩波新書、2017.
建築計画学、特に住宅地や団地の成立過程や住まい方・使われ方を研究する大月さんがこれまでの研究成果をまとめた本です。また戦後日本の住宅政策の歴史もまとめられていて参考になります。住宅地には忌避されがちな賃貸住宅が、住宅地の新陳代謝をうながし、住宅地を維持していくうえで重要な役割を果たしている、ということは目から鱗でした。一戸建て、専用住宅のみの住宅地ではダメで、賃貸住宅、併用住宅なども組み込むことが大切、というのは全くその通りだと思います。大月さんが指摘しているように、建築協定がある住宅地で、一戸建ての専用住宅以外を受け入れるのは、ルール上も住民感情の面からも難しいのかもしれないですが、できるところから実践を積み重ねていくしかないのでしょう。
『この団地では、設計当初には想定だにされていなかった、賃貸の戸建て住宅とアパートの出現によって、多様な世帯を町中に呼び込むことに成功していることに気づかねばなるまい。…(中略)…。一世帯が住むことが前提の分譲戸建て住宅や、分譲マンションばかりで町を構成してしまうと、町の持続性を低下させてしまうことになりかねない。』(pp. 104)
『私が近居という現象に期待しているのはむしろ、「町における多様性の獲得」とその延長としての「町の持続性の獲得」である。高度経済成長期に郊外団地として建てられてきた住宅地では、「一代限りでたたまなければならない町」となってしまう危惧をもっている。それを「焼き畑農業的開発」と呼んでもよいだろう。その町を住み継ぐ人がいないからだ。そこで、「近居」を契機として、子育て世代が移り住んでくれることは、そこの地域の人口構成を「多様化」することにつながる可能性をもっている。』(pp. 105)
(2020/01/05)
國分功一郎
「原子力時代における哲学」、晶文社、2019.
著者の國分さんは、なぜ人々が原子力発電にこだわるのか(やめられないのか)という問いをたて、ハイデッガーをはじめ精神分析の知見も用いながらそれに答えようと試みています。國分さんによる講義形式ということもあり、平易な語り口で書かれていて読みやすいです。主に原子力技術を題材にしていますが、原子力技術に限らず、技術とは何かを考える上で非常に参考になる本だと思いました。
國分さんは戦後の1950年代にあって、原子力の平和利用(原子力発電)に対して、哲学者のハイデッガーのみが疑問を呈していたことに着目しています.まず、ハイデッガーによる技術論※1について論じています。ハイデッガーは「テクネー」すなわち技術とはそもそも何なのかという問いをたて、古代ギリシャの哲学者たちにまで立ち戻り議論しています。國分さんによれば、ハイデッガーは、自然(フュシス)それ自体に何かを生成する力が内在されていて、人間は技術(テクネー)によってその力を引き出す手助けをする、そのように考えていたようです。國分は、ハイデッガーによる「フュシス」と「テクネー」について次のように書いています。
『フュシスという言葉は生長するという意味を持っている。そして自然はフュシスという語のもとで、植物をモデルにして理解されている。すなわち、自然とは、それ自体で成長していく力そのもののことである。すると、技術の観点から見ればこうなります。自然は、僕らが技術を使い、あれこれいじくりまわして何かを作りだすための素材ではない。自然は素材ではなくて力である。そのようなイメージがフュシスという言葉で理解された自然の中にはあったんだと、ハイデッガーは考えるわけです。』(pp. 112)
このような自然(フュシス)と技術(テクネー)の概念は、私たちがそれらの語に対して持つ一般的なとらえ方とは異なっているように思いますが、イメージはしやすいです。このような理解に基づけば、國分さんが解説していますが、ハイデッガーによるプラトンが唱えたイデア論と、それ以降の西洋哲学に対する批判(目に見えないもの-あの世のイデア-に重きを置き、目の前に存在しているもの-この世の自然-を軽んじている)も理解しやすいです。またハイデッガーは、プラトンとそれに続く西洋哲学を手厳しく批判する一方で、ソクラテス以前のイオニアの自然哲学者を評価し詳しく論じているようです。そして國分さんは、次のように書いています。
『さらに、フュシスがフュエスタイから来ていることからわかるように、自然はそれ自身が萌え出づる力を持つものとして捉えられている。そしてフュシスは、たとえばヘラクレイトスやアナクシマンドロスから読みとれるように、その外がなく、その中ですべてが起こる、そのような無限でありアルケーである。イオニア自然哲学に見いだせるのは、このような自然観です。』(pp. 152)
このような議論を参考に建築について考えてみたいです。先ほど引用したように、「フュシス」には植物が成長するイメージがある。とすれば、「フュシス」とは建築が現象してくる源、種のようなものであると言えるのではないでしょうか。建築家は「フュシス」となりえる建築の種を見極め、種に肥料や水をやるように持てる技術(テクネー)を適切に使うことが肝要なのだと思います。建築においてまず重要なのは、「フュシス」を見定める、ということではないかと思います。建築において「フュシス」となりえるもの、そのひとつは記憶だではないでしょうか。建築には、建築主や建築家の記憶が投影されるでしょう。また、記憶はまだ見ぬ建築のイメージが湧く源泉でもあると思います。さらに、ある建築の周辺に住む人々の中には、なんらかの形でその建築に思い入れがある人もいるでしょう。意識的な思い入れがなくても、例えば今まであった建築がなくなると、見慣れた町並みが違って見えるようになることは誰しも経験があるのではないでしょうか。町並みは、その町の記憶(歴史)を伝えていくのに重要な要素だと思います。人や町に埋め込まれた記憶は、ひとたび失われると元に戻すことは難しいです。記憶を断つのではなく何らかのかたちでつないでいく、建築にその手助けができればよいと思います。また、その記憶をいかにして-「テクネー」を使いこなして-建築に昇華させるのか、建築家に問われている気がします。
関連文献
※1 ハイデッガー:『技術への問い』、関口浩訳、平凡社ライブラリー、2013.
(2020/01/02)